マランの叔父さん
オットの叔父(オットの父親の兄)が 故郷のスンバワを行脚したあと
マタラムに戻り 本日の1時の飛行機で今住んでるジャワに帰るというので
朝からご挨拶に行ってきました。
この叔父 来年で80歳! 平均寿命60歳と言われている当地で
かなりの長生き組に入っています。(平均寿命が低いのは幼児死亡率が高いのも理由)
叔父は 第二次世界大戦中 終盤にインドネシアが3年ほど
日本の占領下にあったころに日本語の教師をしていたらしく
片言ではありますが日本語ができます。
初めてお会いしたとき 自分の事を「わたくし」と言っていたのにはびっくり仰天
今時「わたくし」なんて使う日本人なんて天皇陛下くらいでは?
戦争に負ける前の日本人はなんて美しい言葉を使っていたんでしょう。
今日は思い出したように 滝廉太郎の「荒城の月」を完璧に歌ってくれました。
小学校で習って以来 ほとんど聞くこともなかったのですが
それをこんなロンボクの地で インドネシア人に歌ってもらうとは
メロディと共に遠い昔を思って けっこう胸にこみ上げるものがありました。
「もうほとんど忘れてしまいました」と ちょっと照れながら
でもちゃんと歌詞あってましたって!(私でもウロ覚えなのに~)。
私はまだ60年前の歴史を自分自身では持っていないけど
30年前の記憶でさえ最近はけっこう忘れてしまってアブナイ状態なのに
すごいことだと思いませんか?
他にも 戦時中 小学生だったという叔母さんも 日本語の歌を覚えていて
私の母がロンボクに来た時に 一緒に歌っていたりしました。
現在70代中盤以降の人は こんな風に日本語知ってる率が高いようです。
中国や韓国と違って インドネシアでの年配の人の当時の日本のイメージって
戦争中のドサクサで 長いオランダ支配から 独立するキッカケを作ってくれた国
という良い印象があるような気がします。
だって叔父は私を見ると 本当に懐かしそうに日本語を喋りますから。